ここにあって今はなくなってしまったもの

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ここではないどこか〜Everybody knows This is Nowhere

昨年年男で、あと2年もしないで僕は50歳を迎える。ぽつりぽつりと周りの人間が亡くなったりする。じいちゃん、ばあちゃん、義理のお父さん、少し年下の友達、ご近所のおばさん、作家の先生…etc。ほんの少し前までいたのに、姿がないというのはなんだか奇妙。目の前に姿がないだけで、本当はこの世のどこかで生活してるんじゃないのか?と勝手に妄想してみたりする。

ふたたび「カムカム・エブリバディ」の話。

ジョーとるいはめでたく結婚して、ひなたちゃんを生み、3人の生活が描かれている。ジョーは本当に何もできなくて(笑)、何もしないお父さんに、るいは働き者のお母さんになった。

ひなたの夏休み。ラジオ体操でハンコをもらう。休みも終わり頃に溜まった宿題をるいに叱られながらやる。

あるいはジョーが近所の店のテレビを見ながら泣いたり、そのテレビが置いてある金物屋の主人とチャンバラしたり、コーチとは名ばかりで子供たちの野球を見てあげたり。

あるいは張り紙だけして店を少しの時間だけ休むるい…などなど。

ドラマが秀逸なのはもちろんなんだけど、この時代の描写が物語に厚みを持たせている。今のカムカムの時代のもう少し後ぐらいが僕の小学生時代になるんだけれども、それでもドラマのところどころにある、「昔あったけど今ないよね」的なものが僕の心をくすぐる。大好きな社会学者・岸政彦さんが編纂した「東京の生活史」もそうだけど、そこには確かにあって今は無くなってしまったものがドラマの中で息づいている。

筑摩書房
岸政彦監修 『東京の生活史』プロジェクト 1216頁に織り込まれた150万字の生活史の海。いまを生きる人びとの膨大な語りを一冊に収録した、かつてないスケールで編まれたインタビュー集。

人は死んでも記憶に存在すれば生きている、とよく言われるけど、ならば記憶に存在するならその消えた人も街も生きていると言えるのではないか?

僕の好きな祖母のエピソードで、うちの母親がいじめられて裏山に登り、祖母もその後をついて行った。しばらくばあちゃんと二人で裏山からの風景を眺めた後、家に帰ったというもの。なんの変哲もない出来事なんだけど、なぜか映像が浮かんで脳裏から離れない。祖母はいないけど僕の記憶に残っていれば、それはまだその人が存在しているんじゃないか?と僕は思ったりする。

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